一つ目の記事をちょこちょこ手直ししました。改行とかスペースとか、工夫すると見やすくなりますね。
タイトルの通り、感想を書いていきます。
目次
予告編
鑑賞後の感想いろいろ:Twitterから
鑑賞後の率直な一言はこちら。
映画「あのこは貴族」観てきた。もう一回観たいです
— あおのすけ (@auk_eon_so) 2021年4月11日
観たいね~、もう一回。もう一回と言わず何度でも。
どうしてかというと、
心の中のモヤモヤを消化させてくれて、いいシーンをたくさん見せてくれた。゚(゚´ω`゚)゚。 逸子と美紀のセリフが心にぐさぐさ刺さりまくった
— あおのすけ (@auk_eon_so) 2021年4月11日
こうだったからです。感想を書くといいつつTwitterの引用ばかりですが、この記事は新鮮な感想の忘備録でもあると思ってください。
私は地方出身者です。地方といっても関東圏内で、田舎すぎる田舎ではありません。まあ田舎なんですが。いわゆる地方都市です。東京に行くのも、そこまで負担ではないところ(あんまりたくさん行く余裕はもちろんないですが)。ライブなんかで「都内行くぜ!」ってことはしばしばありました。
それでも地方は地方です。
楽しみにしていた映画の公開、地元では……え、まだ先?
上映館はどこに……県内にないじゃん!!
こんなようなことがたびたびあります。
高校生になるころにはすっかり「こんな田舎嫌だ!東京に行く!」と言うようになり、実際、進学を機に上京しました。今や、電車に乗らずに徒歩で映画館へ行くことができます。
地元よりも高い文化水準、それが広く開かれていて容易にアクセスできる。
この贅沢に夢中になり、劇中で言われていたような「外の人がイメージする、東京らしい東京(ごめんなさい、うろ覚えです)」も楽しんじゃう。
こんな私にとっては、お気に入りになるのも当然な映画でした。
作品には、主人公である華子の友人として逸子という人物が登場します。
私はこの逸子が劇中でいちばん好きです。
#あのこは貴族
— あおのすけ (@auk_eon_so) 2021年4月11日
華子と美紀がどう出会うのかすごく気になっていたんだけど、二人を引き合わせるのが逸子であることに大きな意味を感じた。女性を分断させるものを嫌う逸子が、階層の違う二人の橋渡し役になっている。自分の信念を行動に表せる逸子、すごくかっこいい。
以下、逸子のセリフ。
「いつでも別れられる関係が理想」
「女を分断する価値観がまかり通ってる、女同士で対立するように仕向けられる、そういうのが嫌」
これだよ。
こういうことを言ってくれるキャラクター、こういうことを言ってくれる作品を私は待っていた。
嬉しかったな。こういう言及をしてくれる邦画に初めて出会いました。
なんというか、こういったところにまで作り手の思考が及ぶようなフィクションを積極的に摂取したいと思っている矢先だったので、本当に観に行ってよかったです。
原作も気になっています。いつか読もう(積ん読があるのです……許して)。
パンフレット感想
劇場へ行ったときは完売のためにパンフレットが入手できませんでしたが、後日公式の通販でゲットしました。
昨夜中身を読んだので、そちらの感想も書きます。
ざっくり言うと、よかったところと寂しく感じたところの2点がありました。
引用しながら説明していきます。
よかったところ
今まで映画やドラマの中で100万回観てきたであろう女同士のバトルには一切転がらない。(中略) 女性の自立ってこんなふうに内なる自分、自己の中の女という意識からの脱却なのかもしれない
コラムより
「それを『女性監督ならでは』でまとめられてしまうと困る」
「対立する立場にある女性2人を描きながらも、『女の敵は女』というミソジニー的な型を壊す物語にしようと思った」
「女性差別的な古い型なんてぶっ壊していいんだ!と勇気をもらいました」
原作者インタビューより
なんて勇気をもらえる言葉が出てくることか。
特に原作者インタビューの最後の引用部分、「勇気をもらった」というこの体験談は私に勇気をくれています。
高校生のころ、自分が生きている社会に歪みがあること、その歪みのしわ寄せは自分の持っている属性にくることに気がつき始めました。
以来、「これはおかしいんじゃない?」とか「社会にバカにされている……」とか、思うところが出るわ出るわ。*1
そういう違和感、疑問、不満に寄り添い見事に言語化してくれた。
そして希望のある未来を描いてくれた。
繰り返しますが、観に行ってよかった。たいへん大きな意義を持つ映画体験でした。
寂しく感じたところ
ただ、これは「女性の映画」ということではなく、どんな人にも寄り添う映画だと思うんです
水原希子インタビューより
フェミニズムやシスターフッドは女性だけの問題ではなく男性にも当てはまることです
監督インタビューより
これらの発言。
いったいどうして、「この映画はどんな人にも寄り添うし男性にも当てはまるけど、まずは女性のためにある作品です」と言ってくれないのだろうか?
監督インタビューにある言葉通り、フェミニズムには男性にも当てはまる部分もあります。
なぜならフェミニズムは、「あるべき人間の権利を取り戻す思想」だから。
だからといって、「フェミニズムは男性にも当てはまるよ!男性にとっても悪いことじゃないよ!」と言う必要はないです。
先ほど、フェミニズムは「あるべき人間の権利を取り戻す思想」だと言いましたが、もっと詳しく言うとこうです。
フェミニズムは「女性蔑視的な価値観のある男性優位社会において、不当に扱われる女性のあるべき権利を取り戻す思想」。
そもそもがこうなんです。「男性優位社会において不当に扱われる男性の権利を取り戻す」ものではないんです。
突き詰めて、抽象化すれば、「人権を守る」思想になるから男性にも当てはまるだけです。
大前提として、この社会は男尊女卑社会です。
そこで男性の権利を守ることと女性の権利を守ること……もちろんどちらも同じぐらい重要なことですが、社会的な問題の意味合いとしては同じにならないはずです。
だから「フェミニズムが男性にも当てはまる」のは、二次的な結果でしかありません。
では、インタビューを受けた方たちはなぜ上記のような言い方をしたのか(私の望むような言い方をしなかったのか)。
監督インタビューの中に答えがあります。
女性について発言をするときに「自分はフェミニストではないけれど(=面倒くさい女じゃないですよ)」という前置きをしないと、意見を言いにくい雰囲気があります
きっと、これと同じなんです。
「女性のための映画」について発言をするときに「この映画は男性にも寄り添うし当てはまる(=女性だけじゃなくて、男性にとってもプラスになるものですよ)」という前置きをしないと、意見を言いにくいんです。
無意識にそう感じているから、インタビュー中にこの発言が出て、パンフレットにも載ったんだと思います。
寂しいな。
女性が不当な扱いを受けている。これは事実であり、現実です。
それを制作陣は分かっているはずで、監督も「(女性の目線やシスターフッドと)同じ文脈で観ていただけることはとても嬉しい」と語っています。
だからこそ、「男性にも寄り添う、当てはまる」などと予防線を張らずに、「『あのこは貴族』は女性のためにある映画です」と胸を張って言ってほしかった。
女性のためのものの話をするときに「男性にとってもいいものですよ」なんて言うのは、それこそ無意識の女性差別です。
言っておきますが、私はこの映画を観て「男性にも寄り添ってくれている」という感想を持つことを否定してはいません。制作者がその感想を持ち、また表明することも。
フェミニズム(を取り扱っている作品)の性質上、そうなる面は実際にあるからです。
感想なんて人それぞれだし。私がどうこう言えることではありません。
ただ、
当たり前のように日常にあふれる女性差別に疲弊し、憤っている私にとっては、この映画は間違いなく女性のためのもので、そう思っているからパンフレットのこの言葉を読んで寂しくなった
という話です。
なんだか、男性に忖度しているみたいじゃないですか。
そういう態度は、この映画にも息づいているフェミニズムがなくそうとしているもののひとつでしょう?
気持ちは想像できます。想像できることも寂しさの一因です。
私だって、身近な人に「最近フェミニズムに興味があって、いろいろ考えてるんだ」とはっきり言ったことはないです。そういう切り口で何かの話をすることにも勇気がいります。
私たちのいる社会は、蔑視や差別、それをなくしていくことの話をするときに勇気がいる、予防線を張らないといけない気持ちになる社会なんだな……。
自分だけがそうじゃない。映画のパンフレットを通して、「社会的に」「無意識に」その感覚が染みついていることを実感したのです。
それは悲しいことだと思います。
一刻も早く、「女性のためのもの」を堂々と「女性のためのもの」と言えるようになりますように。
終わりに
いろいろ書きましたが、「あのこは貴族」という映画が私の助けになり、希望になったことには間違いありません。
およそ1か月前、この映画を観たこと。
観終わったあと、一緒に鑑賞した人と感じたことを言い合えたこと。
とてもいい思い出です。いや、思い出で終わらせずにこの先何度も観たいんですが。
「あのこは貴族」、この世に送り出されてくれてありがとう。
*1:今回は詳しく書きません。折に触れて、自分の考えの整理のために記事にしていきます(たぶん)。